Revueの日記

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歌詞の解釈やライブレビューなど、好きな音楽の話を主に書いていきます。Mr.Childrenが中心になると思います。

【Mr.Children】なぜ客に歌わせるのか SUPERMARKET FANTASY考(上)

 

「俺の考えを聞いて!」というエゴと、「どうでもいいから好きなように楽しんで」と受け手に委ねる感覚。優れたポップミュージシャンは、この対立する要素のバランスを上手に取ることができます。

 

ミスチルの場合、HOMEまでは「桜井和寿の人生論」が滲むような歌詞も多く、エゴがある程度前に出た作風でした。ある意味「説教臭い」。

  

ところが、2008年のSUPERMARKET FANTASYで大きく舵を切り、「客を歌わせる」方向へと進みます。説教臭くない代わりに、桜井さんが歌わないシーンが増える。

 

普通、エゴを抑えて大衆に「迎合」した曲を作ったり、客に好き勝手やらせるライブは、客は喜んだとしても演者側にとって苦痛を伴うものです。

 

しかしSUPERMARKET FANTASYは、エゴか客かという「二項対立」を打ち破り、「演者も楽しく、客に歌わせること」を志向しています。溢れ出るエゴを抑圧するのではなく、そもそも演者側の主張が完全に消えている、仙人みたいな佇まい。

  

どうしてこういう表現が生まれたのか、このアルバムは何を言いたいのか、3回に分けて書いていきます。今回は今作の新しさについて、過去作との対比で考えます。

 

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【概論】 

深海からの脱出 

①HOMEまでのMr.Children

ミスチル「Q」でも「POP SAURUS2001」でも「I U」でも、リリースの度に「深海からの脱出」と言われ、何回脱出すれば気が済むんだとも思ってしまいますが、個人的にはこのアルバムを持って、本当の意味で深海の呪縛から抜け出せたと考えています。

 

自らがグリップできる範囲を超えて作品が評価され、社会的地位が向上し、一方で虚無感が増していく。世間が期待するミスチル像と現実の自分とのギャップに苦しみ、売れれば売れるほど深まる孤独と、それでも歌を紡いでいきたいというすがるような気持ち。「世間が喜ぶほど自分は苦しい」。この二項対立を突き詰めてしまった結晶が「深海」です。(古今東西の売れたロックミュージシャンが直面してきた悩みだと思います)

 

だからこそ、DISCOVERYとQでは自分達らしい表現を求め、売れることを目的としない「発見」を試みました。

だからこそ、二項対立は2001年以降にポップの再検証(蘇生の記事参照)を始めてからも、ミスチルのライブパフォーマンスをめぐる根本的な問題としてずっとのしかかってきました。

だからこそ、桜井さんはずっと「ライブが好きではない。できれば引きこもって曲を作っていたい」との発言を繰り返してきました。*1

 

HOMEはよく、「優しい歌」の集大成、といった評価をされます。確かに、曲の視点やメッセージは過去最高にリスナーに近い。だけど同時に、「彩り」には「人はこう生きるべし」という聞き手に向けた強い主張が詰まっています。曲順も人が生まれてから死ぬまでを描くという割とコンセプチュアルな構成です。

結局のところ、HOMEには聞き手に解釈を委ねるような隙間は案外少なく、深海が生み出した強固な二項対立構造からは抜け出せていない。ミスチルの持つ「優しさ」で強い主張を包み、大衆に伝わる形で言い切った、という意味で2001年以降の挑戦の完成形という評価はできるとは思いますが。

(桜井さん自身もHOMEは「成功」と評価しています。個人的にはHOMEは他のアルバムと比べても主張が前に出すぎ、悪く言えば「説教臭い」と感じる部分があります…。)

 

 

②消費の肯定 SUPERMARKET FANTASY

一転して、このアルバムにアーティスティックな「人生論」はありません。前作がこうだったから今度はこうしよう、の様な戦略的なしたたかさもありません。

 

桜井さんはこのアルバムを「デビューアルバム」に喩えています。アルバム1枚を通じて人の人生を描こうとか、世界情勢を憂おうとか、そんな野望はどこにもなく、ただただ中身空っぽのポップスが、「お茶漬けのように」何となく聞き手に消費されるのを待っています。桜井さんはアルバムの始まり方について、「overtureとか叫び祈りみたいな前置きを入れず、『何にも考えてないです』というドライブミュージックで始めたかった」と語っています。

 

「ありふれたポップスを無数のリスナーが好きに楽しむ中で生まれる奇跡」。「ミスチルが聞き手に思想や喜怒哀楽を与える」のではなく、「聞き手が歌を媒介に世界を広げてほしい」。そういうスタンスに徹しています。ニシエヒガシエを匿名で発表しようとしたように、「ミスチルの歌なんだ」というファクターはなるべく排除して「あなたの歌」として好きに聞いてもらいたい、という姿勢が貫かれています。

 

だから、アルバムのタイトルすらも何でもよくて、森本千絵さん原案の単語をそのまま使ってしまう。さらに言えば、SUPERMARKET FANTASY以降のミスチルの歌詞は、世の中に向けて主張しない傾向がどんどん強くなり、ポップスとしての純度が増して行きます。

 

そして、今作はミスチルが沈黙する代わりに、聞き手が積極的にコミットできるような仕掛けを曲にもライブにも盛り込んでいます。観客が歌うパートを組み込んだ曲作りや、ライブでの歌わせる演出の多用、花道とセンターステージを設けて客の真ん中で見せるパフォーマンス…。

SUPERMARKET FANTASYのライブを見ると、「客の中に飛び込んでいってかき回したい」という意識を強く感じます。そのメンタリティは「終末のコンフィデンスソング」で歌われる「一歩踏み込んで前を向け!」というこのアルバム唯一とも言える主張にも通じています。

 

聞き手を楽しませたい。そのためにはなんなら「ど派手なロックスター」を、道化をも演じて見せる。その積極性を持って、桜井さんは「今度のアルバムはロックになる」と発言していたのだと思います。それは究極の開き直りであり、ロックミュージシャンとしてのエゴの放棄であり、ポップミュージシャンとしての矜持の表れ。こうした思いは、例えば「ロックンロール」のアレンジを、あえて従来のミスチルらしいNOT FOUND風ではなくブライアン・メイのイメージで作った、という制作時のエピソードにも顕著です。

 

メッセージを一方的に叩き付けるよりも、何も言わない中でいかに引き込めるか、頭をひねる。逆説的だけど、結果としてそれがすごく素直な曲作りに繋がっている。

 

もちろんほかにも予備的なテーマは入っていますが、SUPERMARKET FANTASY最大の特徴は、この部分にあると思います。

 

 

【まとめ】

以下のような図式。

HOMEまで「主張がある、リスナーは受動的に聞く、ライブで客は歌わない=ロック的」

SUPERMARKET FANTASY以降「主張がない、リスナーが能動的に聞けるように仕掛けていく、ライブで客が歌う=ポップス的」

 

 

 

では、どうしてミスチルが深海的な二項対立からSUPERMARKET FANTASYで抜け出せたのか。HOMEを作ったことから、どんな心境の変化があったのか。次回からさらに自己流解釈を増やして書いていきます。

*1:この裏返しとして「ミスチルが解散しても自分は音楽を続けるだろうが、出来た曲は世の中に出さないと思う」趣旨の発言もしている。アルバムを出してツアーをする、プロとしてのルーチンにつらさを感じているとも取れるし、逆にMr.Childrenのボーカルという自分個人の人格と完全に解離したスターを演じてみせることで、かろうじて桜井さんの音楽活動は続いてきたという見方もできる。